喉が渇く
なぜかわからないけど朝からずーっと喉が渇いていた一日。
そういう日に限って、ミーティングが次から次へとあり、
話さなければいけないことが多い。
口の中に唾がたまるというか、渇いているから、とにかく話しにくい。
自分でいつものペースで話せないことに苛立つ。
昨日、酒を飲んだわけでもなく、塩辛いものを食べたわけでもなく、
何も思い当たることはないのに、とにかく喉が渇く。
そして今も喉が渇いている。
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なぜかわからないけど朝からずーっと喉が渇いていた一日。
そういう日に限って、ミーティングが次から次へとあり、
話さなければいけないことが多い。
口の中に唾がたまるというか、渇いているから、とにかく話しにくい。
自分でいつものペースで話せないことに苛立つ。
昨日、酒を飲んだわけでもなく、塩辛いものを食べたわけでもなく、
何も思い当たることはないのに、とにかく喉が渇く。
そして今も喉が渇いている。
J-Wave が今週月曜日から六本木ヒルズに移転している。
そして10月1日には、開局15周年。
家にテレビがないから、朝も夜も J-Wave を垂れ流していることが多いんだけど、
移転後の J-Wave は、まるで六本木ヒルズの広報部のように、
がんがん六本木ヒルズのことについて情報を提供している。
J-Wave が移転すると言い出したのか、誘致されたのかはわからないけど、
六本木ヒルズとしては、大成功だろうなあ。
ビル、いや地域とメディアが結びつくっておもしろいね。
10月31日まで「J-WAVE SINGING TOWER」という、
森タワーのビルの壁面がサウンドイコライザーになっちゃうなんてすごい。
「J-WAVEの放送と森タワー内に設置した300台のライトを同期させ、ビル自体を巨大なサウンド・インジケーターとして発光させます。」だって。
「CATCH THE J-Wave」とい六本木ヒルズ森タワーが写っている写真を
リスナーから集めるなんていうのも、いいよね。
六本木ヒルズは建物じゃなくて、街区だもんな。
楽天の六本木ヒルズ移転パーティに出席。
恵比寿、愛宕(神谷町)、祐天寺、中目黒、六本木となぜか日比谷線沿線が多い。
懐かしい映像も流れたけど、僕も楽天も思い出を楽しんでいる場合じゃない。
前へ、前へ。
パーティの後、1人でぶらりと六本木のいつものお店で腹ごしらえしながら、お酒をいただく。
98年6月に初めてここのお店には来ているはず。
マイペースさが好き。
サンマを大根と出汁で食べさせてくれるなんて意外。
あたらしいサンマのおいしさを発見。
このお店もいろいろなことに挑戦している。
六本木も変わってきている。
でも、楽天も三木谷さんも僕も、そして六本木も
何も変わっていなかったりするんだろうなあ。
やっぱり思い出に浸って楽しむってのも、たまにはいいかな。いいよね。
六本木ヒルズ「J-WAVE SINGING TOWER」(撮影するの恥ずかしかった)
右山さんから荷物が届いていた。
開けてみると、香水が入っていた。
驚き。
右山さんの事務所で打ち合わせをしたときに、
いつもとは違う香りがしたから、
「右山さん、なんかさわやかな感じの香水つけてますね!」と伝えたら、
大喜びして、ミーティングルームを飛び出して、
その香水の瓶を持ってきてくれて見せてくれた。
それからおそらく2週間くらいたっているだろう。
その香水をプレゼントしてくれたということだ。
いつも右山さんの気遣いには、本当に驚くこと、勉強になることが多い。
だからこそ、いつもいろいろな人を引付ける魅力を維持できてるんだろうなあ。
右山さんが、きれいな年上の女性だったらどんなに僕はうれしいことか…。
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夜は、山中と焼き肉。
桜新町の駅で自転車を抱えながら待っていると、
小泉さんに声をかけられた。
やっぱり彼女が目撃していたのは、僕だったらしい。
小泉さん、用賀には迷わず到着できた?
楽しいバースディディナーを過ごしたんだろうなあ。
こちらは男2人で焼き肉。
アホ話をしながら極上の肉を食べる。
桜新町駅から徒歩8分、246沿いからちょっと入ったところ。
「つる屋」 (石山さん 03-3703-7166)へどうぞ。
そう、あの辻堂の名店が桜新町にやってきたのでした。
最後はダーツで勝負。勝ちました。
マイダーツが欲しくなるね。
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香水もらったり、焼き肉行ったりと匂い系だ。
片田とうっしーの結婚パーティー。
おめでとう!
めでたい、めでたい。
久々の面々とも再会し、そしてベストドレッサー賞も頂き満足満足。
然もご機嫌でよかったよかった。
で、次は誰だ?>べくはい独身メンバー
「組織の限界」(ケネス・J・アロー著 村上泰亮訳 岩波書店)を
手に入れる必要があって、オンラインで古本を購入。
1976年の本。
日に焼けた箱に入っていて、中の本にはパラフィン紙がかかっている。
きっと書店の本棚の隅にあったんだろう。
とてもきれいな本。
当時は750円で売られていたのが、僕は1500円で購入。
ペラペラめくると、名刺大のカレンダーが栞代わりに挟まっていた。
1976年のカレンダー。
こういうのに接した時には、まずは、5月13日が何曜日だったかをチェックする。
自分の誕生日がその年は何曜日で、どんなふうに過ごしたのかなと思い出してみる。
1976年5月13日の記憶はない。
釧路市鳥取にある釧路トヨタの社宅に住んでいた頃だ。
周りに同じ年頃の友達がたくさんいて、とにかく遊んだ。
保育園にも行ってなかったから、一日中遊んでいた。
1976年7月に一番下の弟が生まれたから、母親は妊娠8ヶ月頃か。
母親がお腹が大きい記憶って、全然ないなあ。
妹が2歳半。
二段ベッドの上に寝ていた。下に寝ていたのが妹。
バファリンか何かを一気にたくさん飲んじゃって、鼻血がいっぱい出たのってこの頃かな。
土手で自転車の練習をしたのも、この頃かな。
母親がシュークリームとか焼き菓子をよく作ってくれてたのは、よく覚えている。
あと、歯ブラシは、歯磨き粉、そう「粉」だった。
赤い箱というかケースに入ったやつ。
その頃の本だと思うと、ちょっとカワイイと思える。
何年ぶりだろう。十数年ぶりかもしれない。
鰍を食べた。
近江さんのお店から取り寄せた。
鰍汁に肝和え。
なんというか、懐かしいというか、とにかくうまかった。
肝和えは、母親が秋に時々つくってくれて、
骨を気にしながら食べた記憶がある。
鰍汁は、肝は大人が食べるもので、僕らはあまり手出しができなかった。
でも、今晩は、全部を食べられて大人な気分。
フグより鰍のほうがうまい。
鰍=かじか、です。
すっきりした。
教師は、教えなければならない。
教えるには、学び続けなければならない。
大村はまさんは、そう言いたいんだと思う。
そして今の教師に「迷うな。もっと教えろ。もっと学べ。」とメッセージを送っている。
学校に通っている期間は、子どもは「学ぶのが専門」。
だからこそ、教師は「教えるのが専門」でなくてはならない。
教師の役割
1)教科を教える(授業)
2)生徒の生活との関わり(クラス、進路指導、部活など)
3)校務
の3つとして考えると、1が一番手抜きをしやすいと指摘されている。
2、3は手抜きすると、すぐにばれるけど、
1は手抜きしても、その影響がすぐには出ないからだろう。
「教えること」を手抜きしなくてもいいようにするには、
2、3の業務量を減らすことが必要だろうな。
鳴門教育大学には「大村はま文庫」というのがあって、
彼女の指導資料などが山のようにあるらしい。
見てみたい。
教師の役割は第一に「教科を教える」
それにしてもどうしてこの本、楽天ブックスの検索ではヒットしないんだろう…。
伊藤守さん、52歳の誕生日パーティに参加。
こうやっていろいろな人を招待してやる誕生日パーティって、やっぱり楽しい。
自分の誕生日パーティを自分で主催するなんて趣味が悪いという人もいるけど、
本人と招待されている人が楽しければ、それでOK。
僕も40歳になったら、こういうのをやろう。
伊藤さんは、感じのいい人だ。
一緒にいるといい気分になる。
だから好きだ。
パーティの中盤で、伊藤さんがギターの演奏をした。
かっこいい。真似をしよう。
好きな人のことは、どんどん真似しよう。
曽野先生の木曜倶楽部に参加。
学生、現役の教員、ラジオ局の人、呉服屋さんなどなどが集まる。
あの学生にフォローをしておけばよかったなあ、
と帰りの電車の中でふと思う。
何が始まったかわからずに、きょとんとすることってあるもんな。
優先順位を指定してあげることも、必要。
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公立小学校。
いろいろな境遇の家庭環境が、そこには反映される。
ものもらいは、やっぱり自然治癒じゃなくて、
病院に行って治したほうがいいに決まってる。
でも、オレだったら、その子と関わりを持ったときに、
どういうことができるんだろう。
クラスには、その子だけがいるわけでもない。
おそらく小学校に入る前に、ほとんどの子は文字が読めいてる。
ひとりだけ文字が読めない。
でも、教科書をつかって授業は進む。
この問題に対して、24時間以内にできることは何だろう?
そのヒントが明日の打ち合わせで見つかるかもしれない。
あそこに協力してもらおう。
協力してもらえそうだったら、彼女に連絡しよう。
文字が読めるようになるかもしれないから。
全国でたくさん起こっていることの1つでしかないんだろうけど、
でも、ひとつの具体的な出来事を知ってしまったのも、何かの縁。
ここ最近、朝、ハナレグミの「家族の風景」を聞くことが多い。
なんとなく好きだから。
まだなんとなく昨日の酒が残っている。
AM 10:08.....
なんでこんなに左肘が痛いんだ?
どっかで誰かを腕枕して寝たわけじゃないのに。
ラリアットした記憶もないしなあ。
誰か知ってたら教えてください。
いわゆるSFCの同窓会、ホームカミングデイに参加。
やっぱりこういうイベントは、準備段階が楽しい。
そして、準備段階から関わっていると、
少しふらっとくる参加者の気持ちが、見えなくなってしまう。
自分たちが楽しいから、見えなくなっちゃうんだな。
一番の収穫は、ぼくら2期生の横のつながりが、
なんかいい感じになったことなんだろうな。
ふだんからある程度のつながりを感じられる場があれば、
毎年ホームカミングデイなんていらない。
3年に一度とかで十分。
だからSFC RING は重要だ!!
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大学のホームカミングデイの割りには、イベントでの知的興奮はほとんどなし。
高橋潤二郎先生、赤木昭夫先生、村井純先生との個別の会話が楽しかった。
やっぱりさ、壇上の上の人とダイアローグしろってたって、そりゃー、無理だよなあ。
昔の先生より、今ばりばりの先生の話が聞きたい。
それが僕も含めて卒業生の希望なのかな。
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イベントは、やっぱりテンポ、リズムが大事。
ダラダラやってたら、やっぱり飽きる。手持ち無沙汰になる。
2時間とか3時間でぎゅっと凝縮。
時間も空間も密度濃く、一箇所に集中。
改めてそう感じた。
財津さん夫妻、原田さん夫妻を招いて食事。
然の人見知り時期も、だいぶん薄くなってきたようで、
最初から関わりを持っていた。
3種類のシャンパンとポートワインを少量。
ゆっくり飲んだからか、意外に酔わない。
と思って、途中で然を寝かしつけようと、寝室で2人で横になっていると、
気がついたら、こっちまで少し眠っていた。
「あれ、どうしてオレ寝てるんだ?」と5秒くらいぼーっとして、
意識を取り戻す。
最後のチーズのリゾットがちょうど出来上がった頃だった。
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大地震の夢を見た。
地震発生後、どうしてかわからないけど、僕は家族や友達の前から姿を消し、
ひとりで生活をしていた。
知り合いに見つからないように、逃亡生活。
いきなりマンホールに潜りこんだり、路地を走ったり。
ある日、縄跳びでランニング中の俊介に出くわし、見つかってしまった。
でも、俊介は、いつもの照れたような笑顔で、「お、いた!じゃあな!」と言って、
縄跳びをくるくるしながら走って行った。
コロンビア大学に留学していた大学時代の後輩ブヤが、みごとにマスターを取って帰ってきた。
ということで、ブヤと千尋と綾香が女三人で桜新町で焼き肉を食べているので、途中参加。
ブヤと綾香の2人は、大学のアドバイザリーグループの後輩だったのが最初の知り合ったきっかけ。千尋は、サークル。
ふと気がつくとこの3人は、僕のことをばらばらの呼び方をしていた。
しんのすけさん
しんちゃん
しんのすけ
個々にはそう呼ばれていたから違和感がなかったけど、
3人そろって別々に呼ばれると、おもしろい感覚がした。
バラバラな呼び方で、全員、僕のことを呼んでいる。
これにもう何人かが増えると、
本城
本城さん
本城ちゃん
しんさん
大将
とまたバラエティーが増える。
すべての呼び方で呼ばれるように、人を集めてみようかな。
北海道余市町にある北星学園余市高校を、12年間取材しているHBC(北海道文化放送)のテレビマンが書いた本。
なにやら最近は、ここをモデルにしたドラマ「ヤンキー母校に帰る」も放映されていて、
竹野内豊が主演しているらしい。
軽いドラマになってないことを祈る。
この竹野内豊が演じている主人公のモデルになっているのが義家弘介氏。
「ヤンキー母校に生きる」の著者だ。
編入して二ヵ月後、強歩遠足の前日に、ヨシイエは寮で三年生を殴った。
なおも暴れているところにタイミング悪く、謹慎処分の開けた数人の三年生が寮に帰ってきた。彼らはたちまちヨシイエを囲むと、「おまえ、先輩殴ってといて、このオトシマエどうつけるんだ?」と凄味をきかせた。
するとヨシイエは「これが俺のオトシマエだ!」と叫んで、なんと両足の指の爪をペンチで一つずつ剥いでいったのだ。そのエキセントリックな行動に全員が言葉を失った。噂はすぐに学校中に広まり、彼をなおさら近寄りがたい存在にさせた。翌日、ヨシイエは、痛い足を引きずるようにして30キロを歩ききった。 「よみがえる高校」 河野啓 |
足の爪を全部自ら剥がして、次の日に30キロ歩く強歩遠足に出る。
狂っている。
その彼が、後に大学に進学し、塾講師をしながら、母校が新規採用するのを待ち、1999年に母校に先生として戻ったのだ。
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北星余市。
何回かこの北星余市のドキュメンタリーは見たことある。
正直言って、怖い現場だ。
何度か見学に行ってみたいと思いつつも、怖くていけない。
中途半端な気持ちじゃ、打ちのめされて帰ってくるのが目に見えている。
「学校」なんかではなく、真剣勝負、闘いの場だるう。
先生、生徒、そして地域の人が、闘っている。
親は少し離れたところで、闘いに参加している人もいれば、
傍観を決め込んだり、関わりを拒否している人もいる。
別に、ここは夢のような理想の場ではない。
集団の大麻事件も起こった。きれいごとの学校ではない。
でも、しっかりとした魅力のある教育の現場であることは間違いない。
憧れる。
ただ、そこで働けるかというと、自信はない。
間違いなく、プロの教員、プロの先生が集まる学校なんだろうな。
必要とされている学校。でも、誰もどこも真似できない学校。
北星余市、すげえなあ。
アクノレッジメントの天才に、寿司をご馳走になった。
カウンターで三人横並びになり、天才は僕の左隣に座った。
とにかく出てくるものすべてに対して、アクノレッジメント。
タイミングよく、ペースよく。
天才のなじみのお店なので、天才主導でコトが進むのは当然だけど、
この天才は、僕のなじみの寿司屋に連れて行っても、
きっと同じペースで、握ってでてくる寿司や、職人さんに対して、
最高のアクノレッジメントをし続け、天才ペースでコトが運ぶのが想像できた。
そう、これがアクノレッジメントなのだ。
学生時代にお世話になった慶応藤沢生協の鹿毛さんの送別会。
久留米の実家に戻られるとのことで、学生委員会OBOGが集まり、横浜で飲み。
鹿毛さんが到着するなり第一声。
「今日、僕の息子も呼んだんだよ。20歳、慶応の経済。よろしくね。」
なんとなく息子さんの到着をそわそわしながら待ってるなあと思ったら、
どうやら初めて息子さんとお酒を飲むとのこと。
そりゃー、うれしいだろうなあ。
息子さん到着後、とりあえず隣に座らせる。
なんとなくぎこちない感じもするけど、やっぱり親子だ。
宴会が終わったあと、「僕、今日、泣いちゃうかと思ったよ。」と鹿毛さん。
泣いちゃうのは、送別会だからじゃなくて、息子さんと初めて飲んだから。
いいなー、息子と初めての酒飲み。
venk2003 の10月のセミナー。
今回は、草野耕一弁護士による交渉論セミナー。
20名の学生が六本木ヒルズ森タワー49Fアカデミーヒルズに集まる。
導入からまとめまで、草野先生の知性がしっとり感じられる内容。
内容は難しいが、すごくわかりやすい。
いや、それでも難しいと感じた学生は多かったはずだが…。
ああいう知性、うらやましいなあ。
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セミナー後、何名かで焼き肉。
マスユキ、誘導尋問には引っかかるなよ。
ラッキーナンバーは3、キーワードは愛だ!
マルとしのちゃんが遊びに来た。
しのちゃんが手配してくれた塩釜の牡蠣が48個届いた。
ベランダで牡蠣を殻から出す。
とりあえず生食する分だけ処理して、食べる。
濃厚。海のミルクとはよく言ったものだ。
マルの口には少しあわなかったらしく、
いくつか焼いて食べてみる。
焼いてもうまい。
あやの料理を食べながら、然とマルが遊んでいるのを眺める。
兄弟姉妹がいるって、やっぱりいいもんだと実感。
然も来年2月には、弟か妹ができる。
来年小学校に行くマルを相手にオセロ。
2連勝。
オレは手抜きなんかしないのだ。
マルとしのちゃんが帰った後、
ほろ酔い気分で残りの牡蠣を処理していたら、
見事に3箇所も牡蠣で指を切った。
牡蠣をナメタラだめですね。
明日は牡蠣フライと牡蠣ご飯だ。
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マルや然と遊んでいるうちに、部屋の隅でカマキリ発見。
もちろん干からびているが、きれいに原型をとどめている。
ひと夏ご苦労さん。
然に発見される前に、オレに発見されてよかったね。
然が先に発見したら、絶対お前は食われているよ。
だって、然はこのあいだ虫をおいしそうに食べたもん。
カマキリをデジカメで撮っていたら、あやが一言。
「雑記に載せるんでしょ」
その通りだ。
また視力が低下した気がする。
日中は問題ない。
日が落ちてからがつらい。
夜の運転が少し気になるのと、
プロジェクターに映しだされるプレゼン資料がぼんやり見える。
すでに 0.1 以下な視力だから仲良くしていくしかないんだけど。
坪田先生に頼んでレーシックでも受けようかなと真剣に思った。
視力がよくなっても、当然、伊達メガネはかけ続けるけどね。
延期かよ。
朝から楽しみにしてたのにな…。
他の言語はもうリリースされているのに、
なんで日本語版だけNGなんだ?
と言いつつ、僕自身も、リリース延期やらメンテナンス延長とかを
判断、実施していた張本人。
つらいよねえ。
がんばれ、アップルのエンジニア陣!
オレは待っているぞ。
国立成育医療センター9階W棟に宿泊。
風邪をこじらせたようで、然、入院。
いなみ小児科→成育医療センターといういつものパターンで診療してもらい、
念のために入院して様子をみる。
2002年12月31日から2003年1月5日が最初の入院。
今回の入院が第2回目。
この雑記を始めたのは、ちょうど然が1回目の入院中。
病院で暇で本をずっと読んでいて、
印象に残った部分を書きとめ、Webにアップしたのがきっかけ。
ということで、今回の入院をきっかけに、また何か新しいことでも始めようか。
この成育医療センターは、
「成育医療」とは、これまでの診療科や年齢の枠を越え、妊娠、胎児から出生、小児、思春期を経て成人への発達、そして妊娠、このサイクルに関わる医療を、総合的かつ継続的に診ていく、新しい概念の医療です
という医療をする病院。
建物はまだ新しく、非常にカラフル。
設備は最新。いわゆるITを非常に上手に活用している。
それはまた別途書こう。
すごい参考になる。
成育医療センターは、24時間365日の緊急外来があるので、よく利用している。
生まれて間もない頃は、とにかくちょっとしたことですぐにここに来ていた。
体に前の日まではなかった(と思っていた)青あざがうっすら見えたときにも、
心配でかけこんだ。
診察の結果は、「蒙古斑(モウコハン)」。
恥ずかしかった。
ミルクを吐いたときにも来た。
「飲ませた後にすぐに車に乗せちゃいけません。」
すみませんでした。
ここで診察をしてもらっていると昼夜問わず2台くらいは
救急車で子どもが搬入されてくる。
昨日は、初期対応を終えたあとに、
お母さんがお父さんの肩で泣き崩れているのを目撃。
前回の入院と今回の入院の大きな違いは、
A)母乳ではなく、ミルクになった。
B)「いつもと違う環境にいる」という自覚がかなりはっきりしている。
この2点。
Aによって、僕が看病している甲斐が出てきた!(前回は、母乳が出ないので役立たず)
これは父親としての存在意義だな。
Bによって、然は非常につらそう。
足についているセンサーがいやだったり、
鼻についている酸素注入チューブも不快。
点滴してるから右手が自由にならないのもストレス。
看護婦さんが近寄ると、「次は何するわけ?」という警戒心をあらわにする。
ちなみに、世田谷区は(たしか)6歳以下の乳幼児の医療費は無料。
したがって、ここに何日入院しても、かかる費用は、
・付添い人の寝具代
・然のミルク+離乳食代(前回は母乳だったからこれもかからなかった)
だけなのでした。
ということで、何かお子さんにトラブルがあったとき、成育医療センターはオススメできます。
スタッフ、医療体制、医療姿勢、設備など、親としての満足度は高いです。
患者さんには、今度然にアンケートしてみます :p
ということで、しばらく夜の外食はキャンセル。
アポしてたみなさん、すみません。別途個別に連絡します。
病院にいるとテレビが見れる。
昨日の夜もベッドの横で日本シリーズを見ていた。
1対1で迎えた延長十回裏1死一、三塁。
サヨナラのチャンス。
矢野が敬遠されている間に、次の打順の藤本を呼んで、星野監督が肩もみしながら何かを耳打ちしている。
こういうときに、どんなふうに声をかけるんだろう。
それがすごく気になった。
プロ3年目。大舞台。甲子園球場。2連敗中。緊張。
「結婚したばかりなんやから、ヨメさんにええかっこしてこい!」
これが星野監督のかけた言葉。
なるほどなあ。
オレならなんて声をかけただろう。
小学校1年生の3月の半ば頃だと思う。
3学期の終業式の直前に、僕は釧路日赤病院に入院した。
入院する2日前くらいから、体中がむくみはじめて、
痩せていた僕があっという間にデブになった。
自分のおへそを見て驚いた。
縦長だったおへその穴が、なんとお腹が膨れて横長に潰れていた。
「オレのヘソ、どうなっちゃうんだろう。」と真剣にヘソのことを心配した。
でも、実はヘソだけじゃなくて、体中がむくんでいた。
20kgだった体重は2日間で30kgになった。
終業式近くになるとクラスの集合写真を撮るんだけど、
僕は「顔がいつもと違うから」という理由で、本来の位置ではなく、
端のほうに移動させられた。
その日の夜、父も母も医学書を見たり、電話で病院に相談したり、
ばたばたしていた。
カバーを剥ぐとオレンジ色というか山吹色のハードカバーの家庭の医学書が
家にはあった。
僕もそれを読みながら、もしかしたらこれが原因かもしれないと思い当たるものがあったので、正直に母に白状することにした。
「お母さん、実は冷蔵庫の中にあった、タラコを一本全部こっそり食べちゃった。」
塩分を取りすぎたから、こんなヘソになったんだろうと思ったのだ。
母は笑っていた。
翌朝、釧路日赤病院に行くと、「ネフローゼかもしれません」と診断された。
母はその診断結果を聞いて、泣いていた。
そのまま入院。6人部屋。
夕食に出てきたのは、蕎麦寿司。
お蕎麦を茹でて酢の味にして、のり巻きみたいにしてるやつ。
僕は、1つも食べられなかった。
おいしいとかまずいとかじゃなくて、なんか食べ物がノドを通らなかった。
それ以来、僕は蕎麦寿司が嫌いだ。
とにかく塩分と水分を取らないこと、というのが病院からの指示。
病院食以外は一切口にしてはならない。
食事も塩分がない。塩分がないと、本当に食事は味気ない。
最悪だった。
水分をとってはいけないけれども、粉薬はたっぷり毎食後に服用しなくちゃならなかった。
水を飲まないで、どうやって粉薬を飲めというんだ?しかも小学校1年生に…。
誰かからアドバイスをもらったのか知らないけれども、
母は、売店からオブラートを買ってきて、僕に薬を飲ませた。
小児病棟だから、お見舞いがたくさん来る。
僕にも来るけど、他のベッドの人にも来る。
お土産も持ってくる。
みんななぜかお菓子だった。それか果物。
僕は病院食以外食べちゃだめだった。
持ってきてくれたお菓子や果物は、みんな同じ部屋のほかの子どもにあげた。
それをみんなおいしそうに食べていた。
僕の学校の校長先生は、大きなソフトクリームを持ってきてくれた。
コーヒー味とバニラ味がからまっている例のソフトクリーム。
でも、やっぱりそれも食べられなかった。
隣のベッドの子にあげた。
病院食以外のものを何か食べたかった。
どうしても食べたかった。
思いついたことがあった。
病院食以外で食べているもの、そうだ、オブラートは薬と一緒に食べている。
じゃあ、オブラートなら食べていいんだ!!
そう思って、オブラートだけを少しずつこっそり食べていた。
おいしかった。
むちゃくちゃおいしかった。
少しずつのつもりが、どんどん食べていた。
あまりのオブラートの減り具合に、さすがに母が気がついた。
「食べてるでしょ?」
あっという間にばれた。
本当にオブラート、おいしかったなあ。
最終的には、ネフローゼではなく、急性腎盂炎だった。
1カ月と10日間入院した。
母は毎日欠かすことなく、朝から夜まで面会時間ぎりぎりまでずっと付き添ってくれていた。
専業主婦ではあったが、病院まで汽車とバスを乗り継いで1時間20分。
さすがに毎日だと疲れただろうなあ。
僕には、1歳違いの妹と4歳違いの弟がいた。
この頃は、入院している僕のほうが、妹や弟よりも母と一緒に過ごしていた。
文字通り、母を独り占めしていた。
そんなことは後にも先にもこれっきり。
そう考えると、入院もいいもんだった。
どういう結果だとか、どんなプロセスだったかなんてあまり重要じゃない。
オレがそれを選択した、それを決断したっていう確信が重要だ。
決めたのは自分。
病院に行く前に大戸屋で腹ごしらえ。
今頃、天王洲ではHCDの打ち上げやってるんだろうなあとか思いつつ、かつ煮定食を食べる。
隣の席に20代前半のカップルが座った。
男性はポケットから、サッカー選手のトレーディングカードの束を取り出して、
一枚一枚大事そうに眺めている。
女性はルイ・ヴィトンのバッグから、Γ東武伝言板」という白い紙に黒で印刷された小さな冊子を取り出して眺めている。
男性のトレーデイングカードの整理も一段落したのだろうか。
おもむろに女性が手にしていたΓ東武伝言板」を
ひょいとつまんで取り上げて、またそれを眺める。
女性はまたルイ・ヴィトンのバッグから、
今度はどこかの商業施設のフロアマップを取り出して、腿める。
この間、約10分。ニ人は一言も言葉を発しなかった。
Γ東武伝言板」を見ていたその男性が小声でぼそっと何かを言った。
女性もそれに短じかく小さい声で答えたようだった。
そしてまた二人は、それぞれ手にしているものを眺めていた。
何日か前、伊藤守さんからのメールにこんなことが書いてあった。
Γコミュニケーションはあることに価値があるのであって、
内容は、まぁ、いい。」
僕はそんなニ人の光景を眺めていた。
戸田さんと辰野さんが似顔絵をつくってくれた。
こんなにタレ目か?
然がやっと退院できた。
22日の夜からだから、9泊10日。
長かったぁ。
さすがに昨日の晩は疲れがどっと出て、発熱。
朝も熱が下がらなくてだるい。
午後の打ち合わせをキャンセル。
ただ、お昼に草加市で講演会があった。
それはさすがにキャンセルできないので、
重い体を引きずって、田園都市線ー半蔵門線ー東武東上線の旅。
長かった…。
まあ、いずれにせよ退院できてよかった。
今日からはちゃんと家のベッドでゆっくり眠れます。
あー幸せ。