初雪
日が暮れてから、雪が降りました。
うっすらと積もっています。
気持ちがいいなぁー。
きっとすぐにとけちゃうんだろうけど、明日の朝はちょっとは雪遊び、できるかな。
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日が暮れてから、雪が降りました。
うっすらと積もっています。
気持ちがいいなぁー。
きっとすぐにとけちゃうんだろうけど、明日の朝はちょっとは雪遊び、できるかな。
雪の朝。
子どもたちはおおはしゃぎで薄着で外に飛び出している。
雪を食べてご満悦。
「足跡発見!」
「なんの足跡だろー。」
「シカじゃない?」
「ウサギだよ。」
「いや、お父さんは猫だと思うけど...」
「猫じゃないよ!」
「イタチかなぁ。」
「熊だったりしてー!!」
「熊はこんなに小さくないでしょっ。」
「オオカミかなぁー」
「いや、やっぱりお父さんは猫だと思うんだけど...」
「猫の足跡」というのは、どうやら現実的過ぎてつまらないようで、子どもにとっては受け入れがたいらしい。
でも、これ、猫ですよね?
あっちゃんとわこさんの田んぼの脱穀が終わった。
春に引っ越してから、ほんの少しだけど、この田んぼに関わることができた。
関わったといっても、代掻き、田植え、雑草取り(1回だけ)、稲刈り、脱穀というポイントでしか作業をしていないし、作業といっても1回にほんの数時間程度。
それでも、田んぼから学ぶこと、感じたことは多かった。
「ぼくも田んぼをやろう!」なんてことは安易に思わないし、思えない。
それだけ、お米をつくるというのは、想像以上に大変そうに見えた。
一方でとても魅力的なことであることも事実。
さて、昨日、寝るときに思ったこと。
「ぼくは一生のうちにどれくらいの面積のお米を食べるのだろうか。」
仮に、たくさん食べる時期、あまり食べない時期はあるとしても、生まれてから死ぬまでに、毎日一合のお米を食べるとする。
80歳までに、一合×365日×80年=29200合=4380kg
ぴんときません。
調べてみると、農林水産省のHPにこんなのがありました。
「一俵分の米を作るには、どれくらいの田んぼが必要ですか。」
これによると、
米の単位面積当たりの収量は、その年によって、また、地域によっても違いがあります。作柄がやや不良だった平成18年産水稲の全国平均の10a当たり収量(玄米ベース)は507kgでしたが、全国平均の10a当たり平年収量(玄米ベース)は529kgでした。これらの数字を使って、一俵分の玄米60kgを生産するのに必要な水田の面積を計算すると、平成18年産の収量を基にした場合は約118平方メートル、平年収量を基にした場合は約113平方メートルとなります。(http://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/0709/03.htmlより引用)
ということなので、60kgを生産するのに必要なのは、ざっくり115平米としよう。
だから、80年間で食べるお米4380kgに必要な面積は、約8395平米、約2540坪...。
テニスコートが175坪くらいということなので、テニスコートが14.5個分。
ちょっとは面積のイメージがわいてきました。
けっこうな面積を食べてるなぁ。
1年間で考えてみよう。
ざっくり、1年間にお米を60kg食べるとして、115平米、約35坪、だいたい畳17.5枚分。
これだけの量のお米を自分の手でつくる。
想像してみよう。
家族だとどうだろう。1年間に家族でどれだけの面積のお米を食べているか。
我が子が通う保育園や小学校の子どもたちが1年間に給食で食べるお米の量とその面積ってどうなんだろう。
4380kgのお米をつくるのに必要な水の量ってどれくらいだろう?
などと考えていくと、いろいろなものの循環、関わりを無視できなくなってくる。
お米の売買禁止。お米と何かを交換することも禁止。自分で食べるお米は、自分でつくること。
そうなったら僕はどうするだろう。
お米以外のものを食べるだろうか。
それとも、自分の手でお米をつくるようになるだろうか。
おにぎりも好きだし、寿司も大好きだ。
漬物も欠かせない。
それに、焼き魚にはやっぱりお米だ。鮭や秋刀魚にパンなんて考えられない。
だから、きっとお米を自分の手でつくるようになるんじゃないだろうか。
そしたら...。
家族での作業が増え、
隣近所との協力も増え、
天候を気にし、
四季を感じ、
いろいろなものの循環、関わりを実感する。
そしたら、世の中、もっとよくなるんじゃないだろうか。
単純な考えだけど。
面白法人カヤックの経営理念の「つくる人を増やす。」
僕は強くこれに共感している。
自分が食べる分のお米を自分でつくるのが現実的でないとしても、
一生の何かのうちの、ほんの少しでいいから、
自分が食べるもの、自分が身に付けるもの、自分が使うものなどを自分の手でつくり出す。
お金でいろいろ買えて、お金でいろいろやってもらえる時代だからこそ、そんなことって、大事なんじゃないかと思う。
そんなことが実感できた、田んぼとの関わりでした。
あっちゃん、わこさん、ありがとうございました。
さて、僕は何をつくりだそうか。
夏に続いて2回目。
前回は夏、今回は秋。
内容も変わってます。
冬も楽しみ。
前回に引き続き、本当にまっくら。
2回目だから、まっくらじゃなくて、何か見えるかなと思ったけど、やっぱりまっくら。
だから、今回はめがねを外して、預けてみました。
前回は、なぜかめがねをつけたまま。
まっくらで何も見えないけど、僕はやっぱりめがねをつけていたい。
そのほうが、なんだか安心。
さて、アテンドの「ちくわさん」が最後のシェアで一言。
みなさんが「イメージできない」って言う時は、
「絵が描けない、思いつかない」ってことだと思うんです。でも、それ以外のイメージの仕方っていうのもありますよ。
この香りに似ているなぁとか、あの時に吹いていた風の感じと同じだなぁとか、音とか振動とか。
ちくわさんは、全盲の視覚障害者。
明確には答えられなかったけど、その言葉から察するに何かを見た記憶はないようだ。
(あったらごめんなさい>ちくわさん)
確かに僕は、目を閉じて何かを思い浮かべよう、イメージしようとする時、
まぶたの中で、何かの絵や写真、風景を描く。
それに付随して、音とか温度とか、香りをなんとなく思い浮かべる。でも、その割り合いは低い。
絵以外のイメージか...。
ちくわさんのそんな言葉、とても新鮮でした。
モユ、7歳の誕生日です。
11歳11月11日と「1」が6つ並ぶのは、4年後、2013年。小学校5年生。
111歳11月11日は、104年後、2113年。どんな世の中なんだろう。
その頃も、家族がいて、誕生日の歌を唄って、ケーキを食べる誕生日であって欲しいなぁ。
今週末は何の予定もない。
本当はモユの七五三で、長倉神社に行く予定だったけど、当の本人がインフルエンザA型に感染。
一晩、高熱は出たもののいたって元気。
一日中、本を読みまくって幸せそうです。
さて、何の予定もない休日は、朝からとにかく薪の仕度。
諸々の事情から薪小屋から少し離れたところにおいてある丸太をチェーンソーで玉切りにして、
それをリヤカーで運び、薪小屋の前で斧で割る。
写真の右側は買ってきた薪。左側は僕が作業した薪。
1つの棚で、72束くらいの薪が収納できる。
今年の目標は、この棚がいっぱいになるように自分でやってみようと思っていたので、あともう少し。
雪が積もる前に終わらせたい。
薪は2年くらい乾燥させる必要がある。
だから、今年と来年は買ったものを使う。
自分で割った薪を使えるのは、2年後。
つまり、2年後、2年前である今の自分の仕事に出会うわけだ。
まだチェーンソーや斧に慣れていなくて、長さがふぞろいの薪。
これを手にした時に、どんなことを思うんだろうか。
「お餅つきのわらべうた」をやってみようということになり、Youtubeで検索。
いくつか出てきました。
http://warabeuta.org/なのもあって、便利です。
でも、わらべうたって、人から人へ伝承され、それは記憶をベースにしたものだったはず。
だからこそ、少しずつ変化してきたり、当然、地方によっての違いも出てくる。
Youtubeは便利なのは事実。
でも、これって、記憶での伝承から、記録での伝承に変化しているなぁとも思う。
そこで抜け落ちる何かがきっとあるはず。
なんだろう。
記録での伝承は、それを正確に再現しようということに意識が少し向く。
本来は、その場に応じて変化して当然のものが、そうしちゃいけないと思う気持ちが出てくる。
そこらへんの揺れ幅、あそび幅が減っていくんじゃないだろうか。
あとは、「伝わる」時の生身の人間同士の接点が減っているのは確実か...。
でも、Youtubeがあることで、僕は「餅つきのわらべうた」に触れられたんだしなぁ。
いずれにせよ、お風呂の中で「さんがつみっかのもちつきはー、ぺったんこー、ぺったんこー」と、
子どもたちと遊んだのは、楽しかった。
モユは、けっこうマスター。彼女が母になったら、伝承されるだろうか。
コタロウは、ぱちんぱちんと手を打ち鳴らす方が楽しい、というかそれをやりながら、相手の手を挟むのが楽しいらしい。
カンタは、そのコタロウに挟まれないように手を慌てて引っ込める。
カイノスケも「ぺったんこーぺったんこー」とはしゃいでいた。
そんなふうにそれぞれが楽しんでいるのって、いいなぁ。
朝、食卓にて、カンタと。
「あのね、カーズはね、仲間のチックを助けて、一緒にゴールに入ったんだよ。」
(カーズの絵本の話をしているらしい。)
「ふーん、カーズは仲間のチックを助けて、一緒にゴールに入ったんだ。」
「そうだよ、仲間のチックを助けたんだよ。」
「カンタの仲間って?」
「りゅうせいと、うみ。」
「りゅうせいと、うみ。他には?」
「えっとね...、ぜったいに誰にも言っちゃダメだよ。」
「わかった、ぜったいに誰にも言わない。」
「あかり」(耳元で、こっそりと)
「あかり。」
「内緒だよ。」
「わかった、内緒。」
(あかりは女の子。女の子の名前は、ちょっとこっそりな気分らしい。)
「りゅうせいと、うみと、あとあかりは東京に住んでいるよね。」
「うん。東京の保育園。」
「軽井沢だと?」
「んー...、と。あれ。」
「あれ?どれ?」
「うん、あれ。木。」(窓の外にあるいつも登っている木を指差して)
「そうか、軽井沢の仲間は木なんだ。」
「うん、木。」
「保育園の仲間は?」
「んー、いない。」
仲間が「木」と言えるのは、ちょっとステキ。
でも、やっぱりさびしい響きがある。
実際には保育園でも一緒のクラスの子と遊んでいるんだけど、
カンタにとっては、「木」以上の存在ではないんだろうなぁ。
彼の中では、それが今起こっていること。
友達のブログから過去の自分のエントリーに出会う。
軸(2005年6月22日)いいとか、悪いとか
効果があるとか、効果がないとか
関係あるとか、関係ないとか
意味があるとか、意味がないとか
意義があるとか、意義がないとか
役に立つとか、役に立たないとか
好きだとか、嫌いだとか
ふさわしいとか、ふさわしくないとかそんなもんはどうでもいい。
信念もってできることか、できないことか。
情熱もってできることか、できないことか。そこだけを大切にしていくのです。
そうだ、そういうことだ。