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2003年12月 4日

大人の問題

アキラとメグに誘われて、静岡県の公立中学校を訪問。

学校を訪問・見学するときは、私立と公立では意識的に注目する視点を変えている。

私立の学校では、学校運営に。
公立の学校では、子どもと大人の関係に。


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いろいろな問題を抱え、保健室登校をしている生徒がいた。
3人。

以前はもう一人いたそうだ。
その生徒は、あるタイミングで教室に戻った。

教室に戻れた生徒、まだ保健室登校の生徒。

教室に戻れた生徒の担任は、とにかく毎朝、保健室に顔を出し、
生徒に一言声をかけていたらしい。

伊藤守さんも言っていた。
コミュニケーションは内容じゃなくて、「ある」こと自体に価値がある。

子どもが問題なのではなく、その子と関わる大人の問題なのだ。

コメント (5)

かな(例の高校生のカレができた子)がね、「しんちゃんって、かわいいね(は~と)。また連れてきてね。しんちゃんとも話ししたいから(ぴ→す)」(原文ママ)というメールをくれました。

子どもたちは、大人をしっかりと見定めている。
受け入れるか受け入れないか、きっちり見定めた上で関わりを持とうとしている。その点ではものすごくシビア。
しんのすけが受け入れたから子どもらも受け入れたんだな、きっと。

また行こうぜ。

そうか、おれってかわいいか、やっぱり。

まさしく・・・。

といっても、「子どもが問題なのではなく、その子と関わる大人の問題なのだ」ってとこ。

ふふふ。

うーん、そうだね。ある種の問題を抱えている子どもは、保護者も学校に呼ぶけど、その保護者と対峙すると、やっぱりある種の問題を抱えてる。
親は選ぶことができないけど、せめてそれ以外で関わる第二の親ともなるべき大人は、選ばせてあげたいなぁ、という気がします。

コミュニケーションはあることに価値がある、というのはそうだね。「ない人」けっこう多いもの。特に日本人には、身近な人(親、子、妻、恋人)ほど甘えてしまって「言わなくても分かる」的な人がいると思う。

でね、私が「あることは価値がある」というのを前提に、コミュニケーションの「質」が最近気になるんだよね。

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